2018.1.15 第13話
Telemarkskiにはまって30年
映画「私をスキーに連れてって」の年(1987年)ミハーだったpapaは、スキーを新調した。
3歳からスキーを履いて、高校卒業まで、毎冬、当然のごとくスキー場に通っていたが、その当たり前の「冬の遊び」が、東京の学生時代はどうも自分には奇妙に映っていた。スキーの道具に大型バックを抱え、新宿から深夜バスに乗ってスキー場に向かう若者たちの姿に、「そんなことまでしてする遊びかな?」と。もの心ついた頃からすぐ側にあった「スキー」は「冬の日常」だった自分にとっては、「東京のスキー事情」を、若さゆえか?斜に構えて見ていたかもしれない。偏っていたのだ。
北海道に戻ってデザイン事務所に就職した後も、なぜかスキーに興味は戻らなかったので、ほぼ10年くらいスキーから離れていたかもしれない。その後、mamaと結婚し子供もできて、長女(愛ちゃん=3才)にそろそろスキーを教えないと。の頃なのだった。まさに「私をスキーに連れてって」と。そうか、久々にスキーでも買おうかな〜。と。
スキーから離れていたせいもあって、道具やトレンドもあまりは把握していなかったが、幸い、papaはその頃、旭川西武の広告制作室にいたので、SEIBUSPORTSのスタッフとも顔見知りだった。SEIBUSPORTSの係長に「最新の道具をそろえてください。予算は15万。」と伝えただけだった。高校時代、1年だけ競技スキー部にいたので、ま〜ある程度は滑れる旨を伝えて、、、。
彼が選んでくれたのは、競技用の最上位機種だった。???大丈夫か?滑れるのか???アトミックのGS用、コフラックの真っ白なレース用ブーツ。スラローム用の折れ曲がっているタイプのポール。ウェアはどういうわけか?いわゆるスキーウェアは着たくなかった。その年の夏に、リバーカヤックを始めていたので、秀◯荘で、コロンビアの山ウェアを揃えた。偏っていたのだ。〝みんなと一緒〟が嫌だった。笑
できたばかりの?カムイスキーリンクス、ニセコ、ルスツ、サホロ、トマム、一人で、フォトスタジオのスタッフと、、、。あちこちのスキー場に出かけて滑った。時にはスキー場の駐車場にテント泊で滑ったりもした。ミニスキーを履いたアイちゃんともリンクスに行った。道具が「競技用」ということもあって、整地されたところばかりを選んで滑った。ビュ〜んビュ〜〜ん!
が、でも、しかし、何かが違うのだ。なんなんだろう???ユーミン、山下達郎、広瀬香美の歌がエンドレスで流れるゲレンデ。綺麗にピステンがかかって人工的に整えられたいくつもの滑りやすいコース。多くのスキー客を手早く回す〝機能的な〟レストラン。夏にリバーカヤックを手に入れ「今までにない自由さ」を感じていた自分にとって、この〝効率化された不自由さ〟は一体なんなんだ。冬の自由はどうやって手に入れるのだろう?。
カヌークラブの先輩に相談してみると、彼らは冬山もやるとのこと。冬の道具は、山スキー派とテレマークスキー派に分かれるらしい。「テレマークスキー???」
当時の「旭川カヌークラブの創立者」渋谷さんは語るのだ。「田中さん!テレマークスキーはね、スキーの原点なのさ〜〜。ポピュラーミュージックの原点がブルースでしょ〜。スキーの原点が、ノルウェイ・モルゲダール村テレマーク地方、ソンドレノルハイムさぁ〜!ソンドレノルハイム知ってるかい?」「ソンドレが考案したスキーは歩けて飛べて滑れる、踵も上がる自由なスキーだったのさ〜テレマーク地方で発祥したからテレマークね。」「それが、スカンジナビア半島に広がると、高い山はないからもっと歩きやすい道具になって、そうノルディック地方だからノルディックスキーに。」「で、アルプスの急峻な山の方に広がると、踵も固定されて頑丈な道具になるわけ。だからアルペンスキーね。」「それらが別々に入ってきたんだね。日本にもアメリカにも。」「で、70年代のアメリカのヒッピーたちがスキーの原点を紐解いたのが〝モダンテレマーク〟なんだね。」
「テレマークを手に入れるか入れないかでは、渋谷さん(渋谷さんは自分のことを〝渋谷さん〟と言う)の人生は雲泥の差だったね〜〜田中さん」。
ーーーー 自分もテレマークの道具を手に入れた。その後、僕らはテレマークツアーに出かける山々で叫び続けていた。「俺たちは自由だ〜〜〜!」
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